パパタラファイナルフェスティバル実行委員会からのことば

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堤 清二 公益財団法人セゾン文化財団理事長
私たちは、パパ・タラフマラの解散を、いまの文化状況への痛烈な批判として受けとめるべきだろう。何処にも属さず、何物にも似ない存在者の孤独を、おそらく小池博史さんは誰よりも強く感じていたのではないだろうか。 今回の解散の決定は残念だけれども、よく30年走り続けられたという思いのほうが私には強い。

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天童荒太 作家
パパタラの舞台を体験したあとは、風景が違って見えた。あらゆる芸術を内包し、世界の美と混沌を、丸ごと表現しようとする世界唯一の集団に、私の偏狭な価値観は、驚喜して伸ばされてきた。発展的解散の道を選んだ彼らを惜しみ、讃え、感謝しつつ、最後の体験の機会を逃さぬようにと多くの人に勧めたい。

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是枝裕和 映画監督
表現を「メッセージ」といった言葉に置き換えることが作品を理解することだと考えている人にとってパパ・タラフマラの舞台は「異界」である。それは、演劇よりも音楽に近い。リズム。運動。身体。その美しさに触れることは僕にとって、自らの表現の濁りを再確認するためにも必要なことだ。

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葛西薫 サン・アド グラフィックデザイナー
重要なことはパパ・タラフマラという名前とその由来だった。もし違う名前だったら違うものを作っていたと思う。そのくらい、大きなものを引き受けていると感じた。パパ・タラフマラの皆が一生懸命踊り狂ってる姿を見ると、原始的な動物に還った人間の姿を思い浮かべ、そういうものが自分のなかにはまだあるのかと問いただす。そして人体はただの管(くだ)であることを想像する。それは僕にとっては大きな救いであり慰めとなる。

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安藤隆 サン・アド コピーライター
僕はパパ・タラフマラのコピーを書く時に、理解しあうのではなく、そこにあるものと、僕が考えている言葉を衝突させるという関係でいたいと、そう思ってきた。どんなに狂騒にみちた、極彩混沌超速の舞台世界であっても、底の底には、静けさと苦渋のようなものを嗅ぎつけようとしていた。んだけど。

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谷川俊太郎 詩人
パパ・タラフマラの舞台を見ていると、そこで繰り広げられる多彩な身体の動き、声、音、言葉、光、物体などすべてが、まず一人の人間の脳髄から生まれてきていることに驚くのですが、同時にその脳髄が決して孤立したものではなく、古今東西の他の無数の脳髄ともネットワーク化していることにも気づきます。そしてまた脳髄が身体によって生かされていることを喜んでいるのだということも分かってきます。そこではいかなるクリシェの媒介もなしに、すべてがすべてのメタファーとして成り立っていて、混沌すら秩序のメタファーであり、無意味すら意味のメタファーなのだと感じさせられるのです。

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森村泰昌 美術家
表現行為において重要なことが三つある。ひとつは、人とは違った表現に徹すること。ふたつめに、長く続けること。そして最後に、まだはじめたばかりの頃には誰にでも確実にある、新鮮で純粋で集中力のある表現の初期衝動を、いつまでも忘れないでいることだ。この表現における重要な三要素を、パパ・タラフマラはすべて持ちあわせている。30年も持続してきたなんてスゴイと思う。